「みんなのプログラミング by Telulu LLC(以下、「みんプロ」)」にお越し頂きまして、どうもありがとうございます。
ぼくは、15年間勤めた大手金融機関をアラフォーで退職。「主夫」を経験した後に、今は「金融」とはあまり関係がなさそうな「プログラミング」の分野で起業したという、ちょっと変な経歴を持っています。
そこで、やや長文になってしまいますが、お時間あれば、以下をご覧頂き、ぼくの人となりがフィットするかどうかをご判断頂いた上で(コレ大事!)、当社のサービスをご利用頂ければと思います。
ここでは、金融マンとしての挫折・家庭崩壊の危機から、なぜかプログラミング事業を立ち上げるに至ったぼくの起業までの黒歴史をお送りしています。ぼくの「プログラミング挫折の黒歴史」にご興味のある方は、6大特典付き・みんプロ公式メールマガジンにご登録頂くと「プログラミング挫折撲滅への道」無料メール講座特典よりご覧頂けます。メルマガの詳細・ご登録はこちらをクリック(無料・解除可)。
ぼくの苦い挫折経験から生まれたプログラミング講座
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「シン・ゴジラ」襲撃に見舞われて一変した会社の文化に窮屈さを感じたけど「口だけ男」で飛び出せなかった20代前半
ぼくが社会人になったのは2000年の4月。誰もが名前を知っているであろう、大手金融機関に入社しました。
入社当初は、大学生の頃に描いていた社会人像と実際の仕事とのギャップに悩みながらも、それなりに充実した社会人生活を送っていました。
ですから、その頃は独立起業を意識したことなんてありませんでした。むしろ会社の中で、理想的なポジションを獲得することを意識して生活を送っていました。
ところが、入社4年目。
そんなぼくに「独立」を意識させるある出来事が起こった。
何と、それが
「『半沢直樹』でおなじみの金融庁検査」
だったんです。
これで会社の空気が一変。
当時の金融庁検査というのは、今のような「対話型」じゃなくて完全な「取り調べ」。あまりに厳しい「詰め」に、ふだんあれだけ威張っている会社の幹部連中が「虎がいなくなった狐」のごとく震え上がるという、
まさに「シン・ゴジラ」に襲われるくらいの激震が走る事態
だったんです。
そんな「シン・ゴジラ」の襲撃に見舞われた会社でしたが、そのおかげで管理体制が見違えるほど充実していきました。つまり、今流行りの「コンプライアンス」が、超パワーアップしたってやつですね。
ところが、「コンプライアンス」っていうやつがパワーアップしちゃうと、とんでもない副作用が出てくる。
それは、
「コンプライアンス遵守」という名目で、リスクを取ることを極端に回避するようになってしまう
ということなんです。
残念ながら、ぼくの働いていた会社もご多分の漏れず。
「事務ミス撲滅」を合言葉に、細かいチリのようなミスも1つ残らずキャッチする「ドメスト」もビックリの超「除菌」態勢が敷かれたんです。
その「除菌」効果のおかげで、事務の品質は確かに上がりましたよ。でも、「シン・ゴジラ」襲撃前はそれなりに新しいことにチャレンジ出来ていたのが、「コンプライアンス」という名のもとにほぼ何も出来なくなってしまったんです。
それどころか、お互いがお互いのミスを「事務ミスゼロ」の合言葉の下に糾弾し合う。「除菌」しすぎて仲間の菌まで殺してしまうという、まさに「美しすぎるカニバリズム」の光景がもたらされるようになってしまった。
民主国家にいるはずなのに、独裁国家にいるような異国情緒あふれる楽しい日々がやってきたわけなんです。
これって、きれい好きの人にはいいですよ。チリ一つない部屋って最高ですから。そういう人には「除菌(管理)」が行き届いた環境の方がいいでしょう。
でも、ぼくは別にきれい好きじゃないんです。そこまで「除菌」してくれなくていいんです。それより、少々ケガしてもいいから外で遊びたいんです。
事あるごとに「除菌」されたら、お外にも行けませんよって話ですよね。
だから、だんだんと窮屈を感じるようになってしまったんです。
ここにあと何十年も身をおくことが自分にふさわしいのか、疑問を感じるようになってしまったんですね。
このまま会社に依存した人生では、ぼくはダメになってしまう。若くて血気盛んだったぼくは、生意気にもそう強く感じてしまったわけなんです。
だったら、
「さっさと会社を辞めて独立すればええやんけ!?」
って話ですよね。
でも、当時のぼくにはそんな勇気はなかった。
まさに
「好色『口だけ』男」
だったんですね。
「レール」から外れる勇気が持てずに人間性が蝕まれていった20代後半
ぼくは、自分で書くとイヤらしいのですが、いわゆる
「いい大学を出て、いい会社に入る」という「レール」に乗っかってきた人間
です。
この「『レール』に乗っかる」というのは、はたから見れば「うらやましい」と思われるかもしれません。
しかし、ぼくの場合は、そのウラに
いつまでも「偏差値」にしがみついて、人と比較しないと自分の自尊心が保てない
という、弱い内面が隠れていたんです。
そんな弱い人間だから、「『レール』を外れる」という選択肢を取ることが出来なかったんですね。
本当の意味で自分に自信が持てないものだから、なかなか外に飛び出すことができない。
なので、仕方がないから中にいながら出来ることをやろうかと思い、それまでは投資の勉強しかしてこなかったのですが、その頃からお金や人生設計の勉強を始めるようになったんです。
でも、当時の自分はまだ若かったせいもあって、その頃立てた目標は何と、
「お金持ちになって豪遊してオーストラリアに永住する」
という、これはこれで決して悪いわけじゃないのですが、メンタリティとしては
自分が豊かになって「勝ち組」になることしか考えてなかった。
そして、そんな淡い目標を描きながらも、外に飛び出して実行する勇気がないので、悶々とした思いを抱きながらも、会社に居続けることになったんです。
そして、その間に色んな人間関係の「試練」というか「ゴタゴタ」に遭遇しました。
これはなかなか「センテンス・スプリング」的な内容なので、ここでは詳しくは書けないのですが、人生で一番荒れていた時期であることは間違いない。
自分に正直になれないと、人間性も知らず知らずに蝕まれていくんですね。
20代後半のぼくは、公私ともども本当にタチの悪い人間だったんです。
「高級地鶏」なクセに英語全く出来ずに米国に行ったもんだから「地獄」を味わった30代前半
そんな荒れていた時期を送っていたんですが、人生摩訶不思議なことが起こるもので、奇跡的に結婚して子供が出来ました。
親からは、
「あんたは家族の中で一人だけヘンやから、絶対結婚できない」
と言われていたので、自分でもビックリ。
もちろん結婚はすればいいというわけではありませんから、自分の人生の流れにフィットさえしていれば、してもしなくてもどっちでもいいと思いますし、むしろ今度は「結婚」と「子育て」がリンクしない「ボノボ」的な世の中になっていくと思います。
ただ、生んだ張本人である親に「変人」と公言されたぼくに関心を持ってくれる人が出てきたという意味では「ミラクル」であることは間違いない。
そして、またこれも摩訶不思議なことなんですが、2009年の春に、当時提携していた会社に出向する形で、米国に赴任することになったんです。
英語一言もしゃべれないのに。
実は、前の部署に7年間も在籍していたことで、ちょっと天狗になっていたんですね。
だから、米国に行かせてちょっと「お灸をすえてやろう」と思ったとか思われないとか(もっとも大きな会社の人事ですから、単なる駒付きゲームで弾き出されただけというのが真相でしょうが)。
いずれにしろ、異動の理由はともかく、
この米国赴任が自分にとって天国から地獄に落ちる経験になったんですね。
だって英語一言もしゃべれないんですよ、米国行くのに。遊びじゃなくて仕事なのに。
それに、赴任先の仕事の経験も全くないんです。あげくのはてに、日本人がほとんどいない。そんな環境に放り込まれたんですよ。
もちろん、メンタル強い人だったら何の問題もなかったと思いますよ。
でも、ぼくは「チキン」なんです。ただの「鶏肉」じゃないですよ、「高級地鶏」なんです。だから「チキン」度合いも半端ないんです。
だから「地獄」に落ちたんですね。恐らく、これまでの人生の中で一番しんどかった。
「高級地鶏」である性格 + 妙に社交的で馴染めない米国文化 = 日本に帰りたい
という「スーパーホームシック方程式」が出来上がったんです。何回日本に帰りたいと思ったことか。
「手痛い洗礼」と「アナ雪ラストシーン」の体験で価値観が大転換させられた30代中盤
そんな「高級地鶏」のぼくにとっては「地獄」のような米国生活でしたが、もちろん「地獄」ばかりではありませんでした。
というより、むしろこの「地獄」経験をしてよかったんです。
なぜなら、この「地獄」のおかげで、これまでぼくにとって最大のコンプレックスだった英語が克服できたし(今はもう全部忘れてしまいましたが、、)。
それに、語学よりももっと大事な人としての「謙虚さ」の大切さも知ることができたからなんですね。人間万事塞翁が馬。「出来事は起こるべくして起こる」ことを理解し始めた時期でもありました。
さらに、この米国での2年間は、これまでのぼくの価値観が大きく転換させられる、大きなターニングポイントにもなったんです。
米国での生活は、日本にいる時よりも、仕事が忙しくなかったので、色んなことをじっくり考える時間を持つことができました。
これまでのぼくは、「人はどう生きるべきか」というような、人として内面や人間力を磨く部分は一切スルーして生きてきたんです。
金融の世界に足を踏み入れたときに、スピリチュアル的な怪しげな精神世界の研究的なことをやっていたぼくの亡くなったおじいちゃんに、
「地に足をつけてコツコツやれ」「世のため・人のためになることをやれ」
とのご訓戒を頂いたのですが、当時血気盛んだったぼくは、
「自分が儲けて『勝ち組』になって何が悪い!?」
とイキがってしまって、右から左に流してしまっていたんですね。
そのおじいちゃんが熱心に送ってきてくれていた、「致知(日本で唯一人間学を学ぶ月刊誌と言われている雑誌)」とか、生き方を指南した手紙なども完全にスルーしていました。
それが、米国に行って「手痛い洗礼」を浴びた。
それで30を過ぎてようやく、「生き方」や「心」の問題にも目を向けるようになったんですね。
米国ではボストンという街に住んでいたんですが、ここがまた自然豊かで素晴らしいところなんです。そのボストンの雄大な自然に触れることで、これまで自分が抱いていた価値観に疑問を持つようになった。
「ホンマに都会でお金を儲けて豪勢な暮らしをするということでエエんか?!」
と思うようになったんですね。
さらに、ぼくの価値観の転換に大きな影響を与えたのが「子供」でした。
ぼくは、子供が生まれるまでは、どちらかと言うと親になって子供を育てるということを面倒なものだと思ってたんです。
でも、いざ触れ合ってみると、不思議なことに愛着がわいてくるんですね。
ぼくは、物事を斜に構えてしまうことが多くて「愛」や「情」などからは程遠い人間だと思っていたんです。だから、自己防衛のために近寄りがたい雰囲気を醸し出すことが多かった。
でも、子供ってスゴいんですよね。そんなぼくにもズケズケとやってくるんです。文字通り懐に飛び込んでくるような感じで。
そんなことをされると、
まさに「『アナ雪』のラストシーン」!
って感じで、ぼくの心のバリアをあっけなく氷解してしまうわけですよ。
受験バカになってから何十年もず~っと忘れていた純粋な「愛」の感覚を、子供が思い出させてくれたんですね。
「愛」というと日本語では若干艶かしいニュアンスがありますので(恋愛的なものを想起させるからかしら??)、「慈悲」とか「慈愛」とかと言ったほうが感覚的には近い気がします。
これこそが、地獄ながらも時間に余裕のあった米国生活がぼくにもたらしてくれた最大のギフトだったんです。これは、忙しい日本では味わえない経験でした。
でも、残念ながらそんな幸せな時間も長くは続かなかったんです。
昔のエルサじゃなくなったぼくを襲った帰国後のストレスが家庭崩壊の危機を招いてついに「脱線」した30代後半
2年後、再び日本に戻ると、仕事の忙しさから週末しか子供に会えない状況になりました。米国に行く前の状況に逆戻りですね。
以前のぼくであれば、何も感じなかったかもしれません。むしろ、普通に仕事に邁進していたでしょう。
でも、残念ながらぼくは米国で「『アナ雪』のラストシーン」を体験してしまったんです。そこで「愛」を知ってしまった。昔のエルサじゃなくなったんです。
ぼくは「ありのままで」生きたい人になってしまってたんですよ。
だから、そんなぼくに帰国後のこの状況は耐えられなかった。生活のためとはいえ、これが自分が自分らしくいられる環境なのか、また自分や家族にとってあるべき姿なのか。
「ありのまま」どころか「ただの働き『アリ』」やんけ!?
と、疑問を抱くようになってしまったんですね。
我が家は、こともあろうか子供が3人。しかも、よめもぼくも故郷が関西なのに、仕事の関係で関東に住んでいるので、親に頼ることが出来ない。
結果、3人の小怪獣たちの世話を、よめが一手に引き受ける状況が続いてしまっていたんです。
これがどういう結末を招いたかは、想像に難くありません。
一方、ぼくはぼくで、会社の仕事が精神的にも肉体的にもキツく、ストレスがピークに達してしまった。
せっかく米国で解かされたぼくの心が、再び凍ってしまったんです。
昔のエルサに戻ってしまったぼくは、家族に温かい心で向き合うことができなくなってしまったんですね。
さらに、子供は子供で、そんな疲弊した親のネガティブな波動を、物理的にも感情的にも受け取ってしまう。その結果、「問題行動」に拍車がかかって手に負えない始末。
家族全体が負のスパイラルに陥ってしまい、まさにリアル「家族ゲーム」状態。
もはや「環境」を変えないと、家族が崩壊してしまう状況にまで追い込まれてしまったんです。
でも、「環境」を変えるということは、会社を退職して故郷の関西に戻るということ。つまり「レール」から外れてしまうことを意味していました。
10年以上その勇気を振り絞れなかったぼくからすれば、それは土台無理な選択のように見えました。
でも、そのときのぼくは、もはやそうするしかありませんでした。
家族崩壊の危機を打開するためには、「レール」から外れることしか選択肢が残されてなかったんです。
こうして「追い込まれ解散」させられる形で「レール」から外れることになりました。
「高級地鶏」だったぼくが、「アリ」でもなく「トリ」でもなく「人間」になるためのまさかのバンジージャンプ。
おかげで、気持ちいいくらい真っ逆さまに転落して、
せっかくこれまで築いてきた社会的地位や肩書きがきれいサッパリなくなってしまったんです。
そこから、文字通り「脱線の人生」を歩み始めたわけなんですね。
「主夫」生活によって浮かび上がった自分の醜い人間性に直面させられたアラフォー最初期
「追い込まれ解散」の結果のバンジージャンプによって、晴れて「人間」になったぼくですが、故郷の関西に戻ってからしばらくは、小学校に入学したばかりの子供や家族全体の生活を安定させることが第一でした。
家族を立て直すことに必死で、いわゆる「主夫」的な生活を送っていたんです。
いずれ社会復帰をすることがあったとしても、「起業」ということまでに考えを及ぼす余裕がなかった。
とは言えこの「脱線」によって、皮肉にも「望み通りに」日常的に子供との時間を持つことができるようになったんです。
正直色々疲れていたぼくにとって、この「主夫」生活は決して悪い感じではありませんでした。
しかし、一方でこの「主夫生活」は、ものすごく大きく、かつ根源的な課題をぼくに突きつけてきたんです。
晴れて「人間」になったまではよかったんです。でも、肝心の人間としての「力」がなかったんです。
すなわち、人間が人間らしく生きていくための「人間力」が全く欠けていたんですね。
つまり、
アラフォーにして「人間力」が全く備わっていない自分の醜い姿と向き合わないといけない
という強烈な課題を突きつけられたんです。
「子育て」とは、字面こそ「子を育てる」と書きますが、その実は親子で学び合う「双方向の育て合い」です。
子供と接する中で、親も子供に人として育ててもらってますよね。子供の純粋な所作から、大人になる過程で失った素朴でやさしい生き方を教えてもらっている。
しかも、子供には「社会的地位」や「肩書き」は一切通用しません。
子供には「人間性」でしか勝負できないんです。
実は、子供と日常的に関わるようになった「主夫」生活は、ぼくの醜い「人間性」を如実に浮かび上がらせるものだったんです。
大手金融機関の管理職という「肩書き」の鎧を外したぼくの本当の姿は、
短気で・嫉妬深く・ケチで・思いやりがない、まさに「人間力ゼロ!」
という実に醜いものだったんですね。
会社に勤めている時は「社会的地位」や「肩書き」を「人格」と勘違いしてしまいます。
「偏差値」や「出身大学」を人格と勘違いしてしまうことと同じですよね。
ぼくは、高校受験からほぼ30年近くに渡って「弱肉強食・適者生存」という「競争論理」の中に生きてきました。
その中で、
「人のために尽くす」「困った人を助ける」「みんなで力を合わせる」といった「協調論理」をすっかり忘れてしまったんですね。
本当は、社会に出たら「競争」よりも「協調」の方が生きていく上では大切なはずなんです。
でも、ぼくは自分のおかれた環境に流されて、大いなる「勘違い」をしてしまっていたんです。
社会的地位の上昇と反比例するかのように、実はそのウラでぼくの「人間性」は急降下していた。
この「不都合な真実」に、アラフォーで「まっしろ」になったことでようやく気付かされたんですね。
それはまぎれもなく子供のおかげです。
ぼくは、人としてもう一度やり直す必要があったんです。
本来であれば、もっと前に身につけておかないといけないはずの「人間力」を再構築するために、家族の力を借りながら「生き直し」を始める必要があったんですね。
どうせ「レール」に戻れないから「やりたいことやるか」とプログラミングを始めたアラフォー中期
そうして、環境が変わって1年あまりが経ちました。
家族も立て直すことが出来て、社会復帰が出来るくらいまでに自分の時間が持てるようになったんです。
これまでのぼくは、「自分がお金持ちになって、自分が豊かになる」ことを目標にしてきました。
でも、家族を持ち、子供と向き合い、価値観を転換させられたことで、その目標は今のぼくには合わなくなっていました。
「何か世のため・人のためになるようなことがしたい」
と思うようになった。
社会人成り立てのときにおじいちゃんに諭されたことが、20年近く経ってようやく自分の腹に落とすことが出来るようになったんですね。
これは、米国での経験や家族崩壊の危機がなかったら起こりえなかった。ぼく自身では到底起こしえない変化だったんです。
そうは言っても「高級地鶏」だったぼくは超チキンボーイ。夢や目標が見つかっても、「レール」から外れて実行する勇気なんてさらさらありません。
でも、今のぼくはすでに「レール」から外れてしまっている。「いい大学に行って、いい会社に入る『レール』」は、残念ながら一度脱線すると二度と復帰することができません。
つまり自分からは事を起こせないぼくが、「自分で何か新しいことを始めざるを得ない環境」におかれてしまったわけなんです。
だったら、
どうせ元のレールに戻れないなら、自分のやりたいことでもやるか
ということで、アラフォーにしてプログラミングの勉強を始めたんですね。
そう考えると、これも人間万事塞翁が馬。
「『危機』というのは、起こるべくして起こる」
ということなのかもしれません。
孔子大先生の教えにのっとって「いい年こいて」アラフォーで起業
でも、アラフォーで、しかもこれまでの仕事と全然関係ない分野のことを始めるなんて、
アホちゃうか!?
って思いますよね。
もちろん、失敗する可能性もあると思います。というかむしろ高いでしょう。
これまで自分を抑圧してきた奴が、何かやろうとすると、とんでもないことをしでかすという悪い例ですよね。「常識はずれ」もいいところです。
でも、なぜか金融の世界に戻るつもりはなかった。
離れてみて自分に向いていないことがわかったし、それよりも
自分のやりたいことで、自分でリスクを取ってやってみたい
と思ったんですね。
くどいようですが、ぼくは人に敷かれた「レール」の上しか歩けなかった超チキンボーイです。
そんなぼくが、
自分の内面の弱さを克服するためには、他人ではなく自分で「レール」を敷く経験が必要
だったんです。
だから、「やりたい」という想いとともに「やる必要がある」と。
そうすることで、
子供たちにも社会の既存の「レール」から外れて、思い切って自分の好きな道を進ませてやることが出来る。
そんな大人になりたいと思ったんですね。
でも、
「アラフォーのおっさんになってから『起業』なんていい年こいて」
と思いますよね。ぼくももちろん思いました。
かの有名な古代中国の哲学者・孔子も「四十にして惑わず(=不惑)」と言ったんです。
「40歳になれば心落ち着き、惑わされなくなる」
と解釈されることが多い有名な論語です。
だから、
「アラフォーにもなって『起業』なんて、フラフラしてどうすんねん!?」
ってことになるわけです。
でも、実は「不惑」の本当の意味はそうじゃないらしいんです。
実は、その本当の意味とは、
道理も良く知り、枠にとらわれない自由な発想で物事を考えること
なんだそうです。
だから、
四十にもなれば過去の実績にしがみつくことなく、新しい領域にチャレンジしていくべきだ
というのが「不惑」の本当の意味なんだと。
なるほど~!!
アラフォーにもなって全く新しいことに挑戦するなんて「常識はずれ」の無鉄砲かと思ってたら、実はむしろ「逆」だったんですね。
「孔子大先生も『やれ~!』と言ってくれてるやんけ~!?」
と、勝手に自分の都合の良いように解釈して、無謀にも一念発起することにしたんです。「超高級地鶏」だったチキンボーイのぼくが起業しちゃったんですね。
とは言え、
アラフォーからプログラミングを始めたので、習得するまでの道のりはまさに「黒歴史」そのものでした。
でも、想いを行動に移していけば、徐々に形になるものです。
おかげさまで、何もない「まっしろ」な状態からここまで拡がっていくことができたわけですから、「思考は現実化する」というあやしい成功法則も、あながちウソではなかったというわけです。
プログラミングで人々の人生を豊かにして、未来に希望の持てる明るい社会の実現に貢献したい!
ぼくは、「合同会社てるる」という会社を作って活動しています。
この「てるる」という社名は、末っ子の名前から取ってきたという超安直(あんちょく)なものですが、意味は一応ちゃんとあります。
それは文字通り「照らす」ということなんですが、
「人々の心を明るく照らして、未来に向かって明るい希望を持ってもらいたい」
という想いを込めて名付けたんです。
「ビジネスは『結果』が全て」とは言いますが、結果が手段を正当化する時代も終わりを迎えています。
稼いだ「結果」も当然大事なんですが、そこに至る「プロセス」も同じくらい大切。
利益という「結果」だけを追い求めるんじゃなくて、お客様に喜んでもらい、お客様を明るく照らして笑顔になってもらえるサービスを提供するという「プロセス」も大切にする。
「てるる」という社名には、そんな想いも込めています。
ぼくがプログラミング講座をやっているのは、確かに世の中がコンピューターにあふれていく中で、それを動かすためのスキルがより重要になってくるから、ということはもちろんあります。
それによって、将来的に仕事に役立つスキルを身につけてもらうということはもちろん狙いの一つです。
でも、スキルを身につけるだけだと、受験勉強と同じになってしまうんですね。
プログラミングは、仕事で役立つスキルが身につくだけじゃないんです。
ちまたで「21世紀型スキル」と言われているような論理的思考力だけでもないんです。
プログラミングを学ぶと
さらには「創造力」によるアンチエイジング効果まで期待できる。まさに心身ともに人生を豊かにする要素が詰まっているんですね。
でも、プログラミングは身近になってきたとは言え、まだまだハードルが高いのが現実。ぼくもアラフォー未経験から始めてさんざん苦労させられました。
こんな無駄な苦労をする人は、ぼくで最後にしたい。
プログラミング経験ゼロの人が、歯を食いしばらずに楽しく続けられて、3ヶ月でスマホアプリが作れるようになってもらいたい。
そして、ぼくが経験したような「変化」を一人でも多くの人に感じてもらいたい。
そういう人が一人でも増えてくれれば、今の世の中を覆っている何ともいえない「閉塞感」というか「生きづらさ」的なものが少しでも氷解するきっかけになるんじゃないか。
そんな想いを実現させるために、プログラミング講座をはじめました。
プログラミングを通じて人々の人生を豊かにしたい。そして、人々の人生を豊かにすることで、「てるる」という社名に込めた「未来に希望の持てる明るい社会の実現」に貢献していきたい。
そんな想いで、血気盛んだった頃の轍を踏まないように、焦らず・おごらず・コツコツと・細く長く精進していきたいと思っています。
最後までお読み頂きまして、どうもありがとうございました。
2018年5月
みんなのプログラミングby Telulu LLC
(合同会社てるる)
代表社員CEO 北川 博之
ぼくの「プログラミング挫折の黒歴史」にご興味のある方は、6大特典付き・みんプロ公式メールマガジンにご登録頂くと「プログラミング挫折撲滅への道」無料メール講座特典よりご覧頂けます。メルマガの詳細・ご登録はこちらをクリック(無料・解除可)。
ぼくの苦い挫折経験から生まれたプログラミング講座
「みんプロ式」の詳細はこちらから
プロフィール
大阪府生まれ。大阪府立茨木高等学校、京都大学経済学部卒業。
2000年より、日本生命保険相互会社、ニッセイアセットマネジメント株式会社、パトナム・インベストメンツ(米国)、ニッセイ・キャピタル株式会社において、日本株トレーダー・アナリスト、証券バックオフィス、経営企画、システム開発、海外投資家向け日本株マーケティング、資産運用会社の会計・税務・法務等の業務に従事。
2016年、合同会社てるる設立。スマホアプリプログラマーとして「願望実現サポートアプリ『GAMBO』」「Meisoー1番シンプルなマインドフルネス瞑想アプリ」「小学生からの英検®単語」をはじめとした、メンタルヘルス・知育・自己啓発系アプリを6タイトル・計12本(Android・iOS)をリリース。
2017年、自身のこれまでの社会人経験・プログラミング経験・子育て経験を基に、プログラミングを通じて人々の人生を豊かにして、未来に希望の持てる明るい社会の実現に貢献したいとの想いから、プログラミング完全初心者と挫折経験のある人を支援する「プログラミング挫折撲滅プロジェクト・みんなのプログラミング by Telulu LLC」を設立し、プログラミングサポーター活動と心理カウンセリング活動を開始。これまでに3,000名を超える方の挫折撲滅をサポート。
私の詳しいプロフィールにご興味のある方は、こちらからご覧ください。
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「みんプロ式」を運営する合同会社てるるについてご興味のある方は、こちらからご覧ください。
あだ名(ニックネーム)
「3年目の浮気」がわかる世代の方からは「きーぼー」と呼んで頂いていますので、そう呼んでもらえるとうれしいです。
小さい頃は「きっちゃん」とか「きっちょむ」とか「さる(そのまんまやん!?)」とか色々。
できること
- スマホアプリプログラミング(Flutter☓Dart/Android(Kotlin・Java)/iOS(Swift))
- webサイト制作(Wordpress・php・html)
- 心理カウンセリング(心理カウンセリング・人生相談・育児相談・マネー相談等)
- Microsoft Office(Word・Excel・PowerPoint/LibreOffice)を使った文書・資料作成
- Microsoft Accessを使ったデータベースツール作成
- Excel VBAを使った業務効率化ツール作成
- Youtube/Vimeoでの動画配信
- Camtasia・AviUtlを使った動画編集
- 小規模会社の会計・税務・労務・法務など、会社のバックオフィス関係のことはだいたいできます
- 子守り(小学生以下の子供は得意です)
座右の銘
- まさに知るべし、万法は唯心なり
- 情けは人のためならず、廻り廻って己が身のため
- 心温かきは万能なり
目標
「上から教える『講師』」ではなく、「横から支える『サポーター』」として、一人でも多くの方に、プログラミングの最初の壁を突破する喜びを味わってもらい、心身ともに人生を豊かにするお手伝いをさせて頂き、未来に希望の持てる明るい社会の実現に貢献する。