京都市東部に「哲学の道」と呼ばれる、日本の道百選にも選ばれた美しい遊歩道があります。
この「哲学の道」は、知る人ぞ知る明治時代の大哲学者・西田幾多郎がよく散策していたことから名付けられた道だそうです。
その大哲学者・西田幾多郎の代表作に「善の研究」という本があります。ぼくは大学受験の入試問題でこの本に巡り合ったのですが、「擬古文」と呼ばれる、読み始めると3分で激しい睡魔に襲われてしまう堅苦しい文体で書かれた極めて難解な本です。
ですので、実際の読むことをあまりお勧めできる本ではありません。ぼくは、試験で出るというので仕方なしに読んだわけですが、何とそこにとんでもないことが書かれていることを発見したのです。
それは、「世の中には客観的なことなど何一つない」ということです。
「ほんまかいな」とにわかに信じがたい内容だったのですが、よくよく考えるとそうかもしれないと思うようになりました。
実は、ぼくは強度の色弱で、色がよくわからないときがあります。今でもあるのかどうかわかりませんが、学校でやった色覚テストが全くわからなかったのです。
ですので、同じものを見た場合でも、あなたが認識する色と、ぼくが認識する色は違う可能性があるのです。
しかし、これはぼくが色弱だから言えるわけではなくて、実はモノを見る際には「目」をいう「フィルター」を通してみているので、ぼくだけではなくて、みなさんお一人お一人にとって、同じ色であることを客観的には証明できない。
つまり、「目」だけでなくて、「頭」のそうですが、人が物事を見る際には、全て「自分」という「主観のフィルター」を通してみているので、その見え方が万人にとって客観的に全く同じであることを証明することは誰もできないということを、この本は理屈で論じているのです。
これはものすごいことです。
この西田幾多郎という人は、生前中にむちゃくちゃ優遇された人生を送ったわけではありませんでした。むしろものすごい苦労して、就職もままならないくらい苦労したそうです。
しかし、そういう苦しいつらい経験があったからこそ、このとんでもない論文が生まれたわけで、一見人から見たら悲惨そうに見える人生を、「主観というフィルター」を通してポジティブに変えて逆転させたわけです。
この「客観的なものは何一つない」という彼の主張からは、もっと私たちが自分の力(主観)を信じてもいいと言ってくれているような気がします。
つまり、周りからの評価が得られないゆえに「自分は何もできない」と落ち込んでしまうことはよくありますが(ぼくもそうです)、実は「自分で選択をして運命を切り開く力は誰でも持っている」。
「客観的なものなど何一つない」ので、物事に対する見方は、世間がどう言おうが自分で決めていいわけで、従って、何かが出来るか出来ないかも、周りの評価ではなく自分で決めていいということを言ってくれている気がするのです。
これは非常に勇気のもらえる話で、「全くの初心者からいきなりスマホアプリを作るなんて無理やな」と思っている方もいるかもしれませんが、あなたの「出来る」という想いがあれば、必ず出来るようになるということを、この明治の大哲学者はぼくたちに教えてくれているのです。